書籍
梅雨の晴れ間のある日、僕は八歳になる娘とドングリの苗を植えた。
去年の秋、森で拾ったドングリを、今年雪が溶けてからプランターに植えたのが、芽を出し、もう二十センチくらいには育っている。
家のすぐ横を流れる小さな川の土手に、一列に苗を植えていった。
プランターから、土を付けたまま根を切らないように慎重に苗を取り出して、並べておく。
僕がスコップで穴を掘り、娘が苗を穴に入れて土を被せる。
「このドングリが大きくなったらね、土の中にいっぱい根っこを張って、川の土手が崩れないように守ってくれるんだよ」
「うん」
あとから、二人で植えた苗の数を数えてみたら二十四本あった。
二、三十年ほどたって、僕が年老いて、この娘が大人になったころ、ドングリの苗も生長して、ここは立派な森になっていることだろう。
やがて僕がいなくなって、この娘はもうここで暮らしていなくても、ドングリの森は残っているだろう。
そして、いつかひさしぶりに彼女が帰ってきた時、その森を見て、今日のことを思い出すに違いない。
二人でかがみこんで、頭をくっつけるようにして並んでいたことを。
途中から霧のように雨が降り出して、肩と背中を湿らしたことを。
ねむの木の赤い花が咲いていた。
遠いところでないているひぐらしの声を聞きながら、何度も、何度も植えた苗の数を数えたことを。
考えてみると、人の一生のうちで、親と子がいっしょに過ごす時間なんてわずかなものだ。
七、八十年の人生として、せいぜい十八年間。
人生の四分の一程度なのだ。
子どもといる時間は、あっという間に過ぎ去ってしまう。
幸いなことに、僕は漆を塗って器を作ることを仕事にしているので、ほとんどの時間を自宅ですごすことができる。
座っていれば、学校から帰ってきた子どもたちが挨拶にやってきて、やがて決められた時間、いっしょに食卓を囲むことになる。
三人の子どもたちは、それぞれ自分専用の飯椀と汁椀を持っている。
もちろん本物の漆塗りだ。
みんな初めて食べ物を口にする「おくいぞめ」の時から、ずっと同じ椀を使っている。
長女のお椀は、僕がまだ漆の修行を始める前だったので、知り合いの塗師が塗ったもの。
今年の春、彼女は大学に進学して、この家を離れ東京に住む人になった。
もちろんのこと自分のお椀を大事に持って行った。
長男と、次女は、もちろん僕が塗ったお椀を使っている。
この二人もやがて自分のお椀を持って、巣立っていくことだろう。
一般的には、漆の器は何か特別のものという感覚があって、毎日の暮らしでは使うことができないと誤解されている。
漆器は、せいぜいお正月くらいしか使わないというのが普通だろう。
ところが、歴史的に見てみると、そんなふうになったのはつい最近のことで、安く大量生産できる瀬戸物と、さらに安価な石油化学製品が広く流通し始めるまでは、日本人の食卓は、木でできた漆塗りのお椀が主役だったのだ。
実際、僕の家でそうしているように、ていねいに塗られた本物の漆の器であれば、たいした手入れなど必要もなく、日常使いに充分耐えることができる。
漆のお椀は、ちょっと高価なものだ。
まっとうな仕事をしたものだと、どうしてもお椀一つで一万円ほどという値段になってしまう。
「そんな高価なものを、小さな子どもに使わせるなんて、もったいない。
ポンと放り投げて壊してしまったらどうするの」という声が聞こえてきそうだけど、もちろんそんな心配はご無用。
実際、いろんな子どもに漆のお椀を使わせてみるとわかるのだけれど、子どもの方が大人よりずっと感受性が豊かなのだ。
言葉はまだ通じなくても、「これは大切なものだよ」と話しかけながら使わせてみると、ちゃんとていねいに、大切に使ってくれる。
親も子も、「これは安いプラスチックの椀だから、壊れたら捨てましょう」なんて思っているから、放り投げられてしまうのだ。
大切にすることのできる器を、小さな時分から使っていると、自然と食事の仕方がていねいになっていく。
ご飯をいただく、お汁をいただくという日常のあたりまえのことが、ありがたく大切なことに思えてくる。
食事の仕方がていねいになると、暮らしがていねいになっていく。
お椀一つに、そんなすごい効果があるとするならば、高い教育費を費やすことに比べて、安いものではないかと僕は思うのだが。
もちろん、漆のお椀を使いつづけていると傷みが出てくる。
不注意でぶつけたり落としたりすることもある。
でも、そんな時はお直しをすることができる。
傷んだら、直してまた使う。
そんなあたりまえのことが、あたりまえでなくなったのはいつからなのだろう。
漆のお椀は、たとえ真っ二つに割れてしまっても、元通りに戻すことができる。
漆は、塗料であると同時に接着剤でもある。
割れた部分を漆でくっ着けて、表面を塗り直せば、元通りなのだ。
お椀の修理は、普通は買った値段の七割から八割程度でできるようだ。
僕の場合は、自分の塗った物に限って、すべて無料でお引き受けしている。
漆の器は、塗り上がった時が完成ではなく、お客さんのところで使われているうちに育っていく。
使えば使うほど、美しくなるのだ。
作り手としては、どんな表情をして、帰ってくるのか楽しみに待っている。
もちろん、時には痛々しいものもあるけれど。
自分専用の食器を持つということは、世界の中でも日本だけの、珍しい習慣だ。
ヨーロッパでも、近くの中国や韓国でも、家族で共用する器があっても、それを取り回して使っている。
日本のようにお父さんのお椀、お母さんのお椀、僕のお椀といった個人的な区別はないんじゃないかな。
それは、また日本人だけが、器を手にとって、持ちあげて、口に直接つけて、中の食べ物をいただくという特殊な習慣を持っているからだろうか。
くちびるは、皮膚の中でもっとも敏感な触覚を持っている。
近隣のアジア諸国のように、日本では金属の器が馴染まないのは、くちびるが漆に触れた時の心地よさを知っているからではないだろうか。
漆は、固まるとガラスに近いような硬度を持っているにもかかわらず、触れると人肌に近いような柔らかさを感じることができる。
口に触れた時のなじみがとてもよいのだ。
それだけで、中の食べ物をおいしく感じることができる。
人が生きてゆくのに、大切にできるもの、愛着のあるものが、身の回りにたくさんあったほうがいいと僕は思う。
それは、このあいだ植えたばかりのドングリの苗でもいいし、家族とともにした食事の思い出が染み込んだ一つのお椀でもいい。
(えるふ 2006.10)