書籍
一九九九年に、初めてヨーガン・レールの森を訪ねたときに、土から掘り起こして、新聞紙に包んで持ち帰った小さなクワズイモの苗が、十年たっても鉢植えのまま健在で、いやそれどころか見違えるばかりに成長し、僕の家のリビングに濃密な亜熱帯の感情を充満させている。
窓の外は一面の雪景色だというのに。
夏の間は、屋外に放りっぱなしで世話いらずだが、北国の冷気を少しでも浴びると、葉はしなしなとたおれて、たちまちに生気を失う。
木枯らし吹く気配になると、慌てて大きな鉢ごと抱え込んで屋内へ。
同時に薪ストーブにやんわりと火が入る。
ここ何年か、僕の家ではこんな恒例行事とともに新たな冬を迎えることになった。
春に、生まれたばかりの新株を分ると、僕の漆工房の職人さんたちがそれぞれの家に持ち帰って育てる。
南国の生命力は、温度さえ与えてやれば、衰えることを知らず、ますますその勢力図を広げていく。
最も勢いのある葉の根元から瑞々しい葉が起き上がり、ほぼ同時に一番古い葉が萎れていく。
葉が次から次へと入れ替わる様子は、無限の輪廻転生を見させられているようだ。
考えてみると、人が植物をペットのように観用して、育てるのはいったいどういう訳なのだろう。
水をやり、肥料を与え、成長に合わせて鉢の入れ替え、株分け。
冬の間は室内で埃も被るので、風呂場に運び込まれてシャワーだって浴びるのだ、この方は。
その手間暇で、僕のお腹が少しでも膨れるわけではないのに。
規模こそ全く違うが、ヨーガン・レールも南の島の荒れはてた土地に木を植え続け、十数年にわたり手塩にかけて育てている。
そこがはや見事な森になったのだ。
もちろん、中には食用の植物もあるが、多くはそんなことも関係ないらしい。
たまに東京でお目にかかると、「今度の台風で、あの森は全滅しました」と悲しそうな瞳で語っていたりする。
でも、もうそのときには、新たな木を植え始めている。
本当にとてつもない労力で、自然と関わり合うことを営みにしている人なのだ。
僕は、その森を見るために二度、三度と南の島に通った。
ヨーガン・レールの森のなかで耳を澄ますと、遠く波の音が聞こえてくる。
見上げると、緑に埋め尽くされた空からこぼれ落ちる木漏れ日。
すべての草木は力強い意志を持ち、光を求めて上昇する。
閉じた葉を静かに宙空に手放し、ひっそりと新たな葉を開く。
この森が移ろい続けることは、ひと時もとどまることがなく、素晴らしい。
それでもヨーガン・レールは自分の森の中に立ち、「私の作った森よりも、天然の森の方がもっともっと美しい」と、少し嘆いてみせる。
やがて、すべての意志をなぎ倒すように、台風がやってくる。
自然は、それを見守る人間のことなど少しも気にとめず、寄せては返す波のように流れ続ける。
ヨーガン・レールが、北国の半島にある僕の家を訪ねてきたことも二度、いや三度ある。
一度は、南インドに住む貴婦人を同伴しての物見遊山。
二度は、能登の海岸で石を拾うため。
話を聞いてみると、この人は石を拾うという目的で世界中を旅しているという。
俗人ならば、ただの石っころを拾って歩いて、いったい何の得になるのかと思うだろう。
僕も、その石拾いにつきあって一日中海岸にいたりする。
すると知らないうちに夢中になっている自分がいる。
いったいこれはどういうことなのだろう。
石はいつも瞑想をしているのだ。
静かに佇んで、そんな気配すら感じさせないが、すべての石はまだ流転の途上にある。
ゴツゴツの大岩が、上流から下流へ押し流され、川底を転がり、水の流れに揉まれて角を削り取られ、丸く柔らかい形に変化していく。
形が定まることは一度もなく、一つとして同じものはない。
石のような無機物でさえ、自然の流れの中で作られたものには、形に余計なもの、不必要なものが一切ない。
海岸はどこまでも続き、波打ち際に打ち寄せられたように玉のような石が無数に転がっている。
この石たちは、ほんのひとときここにとどまっているに過ぎない。
一つ一つを手にとって、眺めて飽きることがない。
そのどれもが完璧なのだ。
この完璧さはどこから来るのだろう。
いやそうではない。
人が手で作り出す形は、どうしてこのような完璧さに近づけないのだろう。
どこから機械で作ったような不自然さが現れてくるのだろう。
僕は、ヨーガン・レールにならい、いくつもいくつも石を手にとっては離す。
再び手に取る。
この石の形があるから、僕は自分の作り出す形の不自然さを知ることができる。
やがて、気になる石を手放せなくなってしまう。
一つを家に持ち帰る。
持って帰っても何かの役に立つわけではない。
コロリンてそのへんに置いておくだけなのだ。
草木と接することも、石を拾うことも、ただの趣味や遊びではない。
ヨーガン・レールにとって何か根源的な行為のような気がするのだ。
この世界のすべては、実はたった二つの物で構成されている。
その二つとは、自然物と人工物。
そしてヨーガン・レールは布を、僕は器を、この世界に送り出すことを生業としている。
僕たちが作る物は、残念と言っていいのかどうかわからないが、あくまでも人工の物に過ぎない。
人は、人工物を作り続けながら、人工物に取り囲まれて生きている。
それはあたりまえのことなんだろう。
だとしたら、どうして時々そのことがつらくて仕方なくなるんだろうか。
そんなこと、そう思ったこともない人には何のことやらさっぱりわからないかもしれないけれど。
巷に物はあふれかえっている。
あふれかえりながら、物は「我ここにあり」と主張している。
その強さがザラザラと僕の琴線に触るのだ。
僕の言っていることがよくわからないならば、コンビニエンスストアの目映い蛍光色に照らし出された陳列棚を思い出してほしい。
我先に人目に触れようと競い合っている物たちを。
僕には、どの街のランドスケープも、普通の家のインテリアも、コンビニの棚と同じように見えてしまう。
世界中が強すぎてうるさくて仕方がない。
そんな人工物の強度を支えているのは、全く自然と対照的な要素だということがわかる。
輪郭線を明確に切り取ったような形、荒々しさと言っていいほどの細部の単調さ。
そして、何とも気味の悪い時間の停止した感じ。
そう人工とは、時間の流れを停止させ、変化を留め、ひとつの物に与えられた意味を貫徹することなのだ。
ヨーガン・レールの部屋にいくつも転がる石たち。
確かに堅い物だけど、その形の柔らかさは目に刺さるところが一つもない。
全体が、あるようでいて、ない。
一個の石のすべてに何の意味もないのだ。
逆に細部に迫れば迫るほど、息をのむほどの微細な美しさが限りなく現れ、隅々にまで行き渡っている。
僕の暖かい居室のクワズイモは、流れるように変化を続け、一つの形をとどめることは決してしない。
転がる石に似て時間を停止させることは決してない。
現在の人工物に与えられた惨状は、人工物がただ使うための道具から、商品に取って代わられたところから始まっている。
生活道具が限られた地域の中で、人の手によって地元の素材を加工して作られていた時代には、人工物も自然に近く、細部が複雑で、全体は静けさを漂わせていたに違いない。
ヨーガン・レールにとっても僕にとっても、さらなる不幸は、自らが作り出した物が商品としてこの世界に流通せざるを得ないということだろう。
だが、成熟した商品は、そのものが道具として生まれた元の位置へと帰って行く。
もちろん全く同じ場所ではなく、そこは過去の土着性と切り離され、かすかな記憶によって自然と結びつけられた象徴的な新しい場所だろう。
まさに、ヨーガン・レール自身が作り上げた人工の森のように。
ヨーガン・レールにとって、テキスタイルをデザインすること、森を作ること、石を拾うことは、深いところで結びついている。
自然と人工の狭間で、矛盾を抱えながら少しずつズレているけれど、オーガニックな輪郭線と手触りが微妙に重なり合っている。
テクスチャーとは、もともと布の縦糸と横糸が交わって作り出される独特の質感、手触りを指し示す言葉。
「織り目の微細さをどこまでも追求しながら、全体が静かに佇むようだ」。
それが、ヨーガン・レールのテキスタイルから流れ出す印象。
人工の森も、拾われて人工空間に投げ込まれた石も、同じ気配を漂わせている。
すべての物は、遅かれ早かれ土に帰るのだ。
「土に帰らないような物は作りたくない」と、何度もヨーガン・レールの口から聞いた。
それは、自らが作り出す物に与えられた時間を停止させないという明確な意志にも聞こえる。
すべての植物は、光を求めて上昇する意志を有している。
ポジティブに求め続けることは、やがて訪れる終焉をも受け入れること、そして限りのない循環の輪の中に入り込むことだ。
衣服となる布にしろ、食事に用いる器にしろ、今僕たちが作るべき物があるとしたら、そういう物だろう。
僕の家のクワズイモは、すぐ近くまでやってきた春を待ちこがれている。
そして家のあちこちに、ごろごろとする石たちは、そろそろ懐かしい水の流れの中に戻してほしいとささやいている。
この雪が溶ければすぐに、また懐かしい森と海岸を訪ねよう。
(ヨーガン・レールとババグーリを探しにいく 2009.07)