漆職人の奥義
僕は、能登半島の輪島に住む漆塗りの職人である。職人のイメージとして、寡黙で自らの技について多くを語らないというのがあるけれど、僕の場合はその逆。自分で漆を塗りながら、語られない技術について可能な限り言語化を試みるのも仕事の一つと心得ている。だって、今そうしないと、語られぬまま静かに消えていく職人の技術、ものを作ることの思想・精神があまりに多すぎるから。本日は、その中から職人魂の奥義に触れようと思うので、心して読むように。
日本の職人は、一般的に地位も名誉も与えられることがなく、社会的保障もなく、ほとんどが出来高制の賃仕事か日給制で不安定かつ低収入。頼りになるのは、自らが身につけた技術のみ、つまり財産といえるのはこれだけなのだ。
したがって、財産保持のためか職人技術は、他人に伝えられることが少なく、一子相伝、奥義秘伝のごときものとなり易い。だが、この秘伝も、探り出してみると、そんなにご大層なものではなく、むかしの職人のちょっとした工夫、思いつきから始まっている。同時に隠されている間に本質的なもの、つまり生命力を見失って、固く冷たい技術に陥ってしまっていることが多い。
ある日、僕の工房にいる弟子たちの会話を小耳にはさんだ。
「自分で苦労して見つけた技術だから、人には教えない」と。
もちろんそれは間違っている。僕は「自分が発見したのであれ、なんであれどんどん公開しろ」とすぐさま指導する。そこにどんな発見があったのかを僕自身も知りたい。親方が弟子から学ぶこともたまにあるもの。
職人修行の基本は、技術をため込むことではなく、自分に流れ込む技術のパイプを太くすることである。「金持ちになる方法」といった類の本を、読んだことはないけれど、おそらく同じことが書かれているのではないか。お金を持つことは、それを貯め込むことではなく、どんどん流してパイプを太くすることに他ならないから。そうしなければ、技術もお金も生きてはこない。どちらも人に手渡すことによって得るもの教えられるものが多い。自ら手にした技術の散財こそ、名工への近道である。
手仕事の技術は、冷たく固まってしまうといけない。そこで止まってしまうのだ。技術は常に流動的で生き生きとしていてこそ、人の心を震わせる美しいものを生み出すことができると信じている。
(オール読み物 2007.08)
命の糧を装う器|漆職人の奥義|岡山のお椀|火男の踊り|うるしのはなし|職人のいる町|輪島ぅまいもん話|子ども椀|畑を耕し木を植える人|李朝の箱|旅のはなし|「茶の箱」の反省|漆の未来