エッセー

李朝の箱

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星の数ほどの虫穴。そっと指で触ってみる。かろうじて薄皮のように表面が繋がっているものの、内部は所々が空洞化して崩れ落ちそう。胡桃の実の殻を二つに割って作った胡桃脚が、底にとりあえず付いてはいる。底板が柔らかくなって重みに耐えられず、それが内側にめり込んでいる。かろうじて残っている金具は錆に覆われたまま。二十年ほど前にアメリカ人のコレクターから譲り受けたものだが、よほど管理が悪かったのか、幾度虫封じをしても、いまだに細々と活動は続いているらしい。じわりじわりと崩壊が進んでいく。放っておけばすぐに黴の温床となる始末。

古いものが特別好きなのではない、こんなぼろぼろのものが好きなのだ。道具として与えられた用途を忘れ去られ、機能を失い、ただ意味も無くここに横たわるもの。形を崩しながらこの世界から消えていく一歩手前で、なんとか踏みとどまっているその姿を、忘れられない一日の残照のように美しいと思う。元々は確かに文箱であった。韓国の李朝時代に家系図を入れて保管したものだと聞いたことがある。大切な文書は、虫に食われ、朽ち果てたのか、すでに打ち捨てられたものなのか、もうどこにも見あたらない。

十五年前に漆職人としての修行を終え、何も知らないまま独立したとたんに、道に迷った。いったい何を作ればいいのかと。そのとき僕の目の前にあったのがこの文箱だった。木の箱の上に、手漉きの紙が幾重にも張り込まれて、仕上げに漆が塗られている。僕はそこで単純なことに気がついたのだ。普段から愛でてやまないもの、ただ好きなものを作ればいいんじゃないかと。一年近く没頭して、この箱と寸分違わぬ写しを作った。張り重ねた和紙に古色を表現し、錆びた金具を打ちつけた。僕の仕事は、ここから始まっているのだ。それからどのくらいの数の器が僕の手の中から生まれていったことだろう。その一つ一つが、この文箱が持っている何か、何と言うのが相応しいだろうか、「佇まい」いや「気」のようなものを確実に胎んでいる。僕は、作り続けることによって知った。この文箱がやがて朽ち果て、形を無くし、還っていく場所があることを。新たに用を与えられた道具たちが産まれる前の場所があることを。そしてその二つの場所が、僕たちが目にすることのできる世界の向こう側で繋がっていることを。

(グラッツィア 2009.06)

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